無常がわからない

お釈迦さまはこの世は「無常」であると仰られましたが、私には無常がわかりません。

 

※この世の全てはずっと変わらないものは無い、変化し続けるという事なのでありますね。

 

交通事故にあった時、会社が無くなった時、まさか自分が・・・と思うのでした。

お念仏の教えに出逢ってからも、そういった事が「無常」なのだなと

お聞きしましてもすぐに忘れてしまうのです。

 

昨年の夏コロナにかかりました。

「まさか自分がかかるなんて・・・ずっと健康が続くのが当たり前のはず?? いや待てよ、お釈迦さまの仰られる通りじゃないか、これも無常なのだな。」

 

しかし元気になったらまた忘れてしまうのでした、どこまでいっても無常がわからない、自分が死んでゆく存在であるという事も頭でわかっていても、本当はわかっていないのです。

 

そんな私にお釈迦さまは「人の寿命は短い、仏の御名を称えて救われていきなさい。」と仰られました。

 

 

お念仏を称え、聞かせて頂けるのは「今」しかありません、わかってもわからなくても、阿弥陀さま、お釈迦さまの仰せのままに「なんまんだぶつ」でありました。

 

なんまんだぶつ なんまんだぶつ🙏

仏さまが私を念じている

「念仏」とは何なのでしょうか。

ネットで調べてみましたところ、仏を念じて南無阿弥陀仏と称える事とあります。・・・私が仏を念じる??

 

そんな事が出来るのでしょうか? 清純な心、真実の心が無い私であります。

仏を念じるといっても、私には仏さまがわかる智慧がありません。

念じたところで自分の作り上げた仏さまでしかありません。

 

そもそも仏教嫌い、念仏嫌いの私がお念仏を称えるという事は称えさせて下さる仏さまのお働きがあっての事なのでありました。

 

「称えておくれ、聞いておくれ、堕ちるお前をただ今救う。南無阿弥陀仏

 

仰せを聞くのは今、ただ今なのでありますね。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

お念仏に親しむ

鏡御影にはお念珠をお持ちの親鸞聖人のお姿が描かれています。

浄土宗ではお念仏を称える時にお念珠で何回数えたかのカウントを取るのだそうです。

親鸞聖人も毎日沢山お念仏を称えておられたとお聞きしました。

 

怠け者の私は何かの縁がない限り、お念仏を称えなくなってしまいます これが私の本性であります。

しかしせっかくの仏さまのお心、お聞きさせて頂かないと勿体ないですね。

そういう時はお内仏の前に座れば自然とお念仏を称えたくなります、これも阿弥陀さまのお働きかけ、ご苦労なのでありますね。

 

称名念仏阿弥陀さまの仰せのお聴聞であります。

 

本日も南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

仏さまに背を向ける

私は普段の生活、生き方、仕事など自分を中心に考えてしまいます。

自分中心だから、思い通りにならないと愚痴や怒りが出てくる、全く仏さまとは正反対を突っ走っている。

 

お念仏に出逢ってからも変る事の無い本性でありますが、その場その場で気づかせて頂く事もあります。

 

十劫の昔から私を喚びづめの南無阿弥陀仏

 

ほんの少しでも仏さまの意にそうような生き方をしたいと思わせて頂きました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

 

法蔵菩薩のご苦労

ある時、お手洗いでトイレットペーパーを見てふと以前お聴聞したことを思いだしました。

この紙は使い捨てであります、毎日お世話になっておりますが・・・。

 

紙は工場で作られます、工場を建設する為に土地を整備するそれは環境を破壊するという事であり、沢山の生き物の生活や命を奪っている。

操業すればずっと周りの命を奪い続ける、私は当たり前にこの目の前のトイレットペーパーを使用しています。

身の回りの衣類や生活用品、このパソコンも・・・。

 

わかりやすく言えば毎日の食事であります、仏さまの目から見れば私の命も魚や虫の命も同じなのでありました。

単純に言うと1匹の魚を食べたら次の生は魚に生まれて食べられる番になるという事、自分が作った業は自分で責任をとらなければならないのですね。

 

生きる為に殺生を繰り返す私は永遠に六道から離れる事は出来ません、そのことに気が付かずにますます悪業を積み重ねる私のこのスガタは法蔵さまの苦しみなのでありました。

その為に私の業をひとつずつ調べ上げてそれを打ち消す修行を完成されて南無阿弥陀仏さまとなられました。

 

普段の生活の中で私の犯す罪を調べて南無阿弥陀仏と称えさせていただく事が、「法蔵さまが私を救いたい理由とご苦労」をお聴聞することなのだと教えて頂きました。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

大行

阿弥陀さまは私を救う為に私に代わって永遠のご修行をされました、修行時代の名を「法蔵菩薩」というのだそうです。

 

本来自力でお浄土に往く為には法蔵さまと同じご修行、つまり私は一瞬たりとも不浄な心は起こさずに永遠の修行をおさめなくてはならないとお聞きしました、それほどまでに無始以来作ってきた私の業は深いという事なのですね。

 

そのような修行が出来ない私の為にご修行を完成され、その功徳を「南無阿弥陀仏」に込めて私にプレゼントして下さったというわけであります。

 

仏教には沢山の宗旨がありますが、「私がどれにしようかな~」と選んだところで仏さまになる為の修行や実践はできません、またそのような心を起こす事もありません。

どこまでも私は救われる手掛かりが無いのであります。

阿弥陀さまはこんな私でもたもちやすいように、称えやすいようにと行を選び取って下さったのでありました。

 

南無阿弥陀仏を称えるといっても私の行ではありません、阿弥陀さまのお働きなので「大行」というのだとお聞きしました。

 

本日も南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

信心と念仏

今月もにしのみや聞法会でお聴聞させて頂きました。

 

後半の座談で講師の宮田先生に「信心と念仏」について質問させて頂きました、

この部分は何度でも何度でもお聞きしたい部分であります。

 

「念仏と信心は離れない、これを切り離して考えるのは間違いであるという事。

信心というのは南無阿弥陀仏の念仏以外には無いという事」をお聴聞させて頂きました。

 

南無阿弥陀仏を称える者を必ず救う」の阿弥陀さまの仰せを思い出させて頂き、本日もお念仏を称えさせて頂きます。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏