不審を問う

私にとってお聴聞南無阿弥陀仏のいわれ」をお聞きしたいという事で耳を傾けます。

聴聞はただ聞いて終わりではなく、座談に参加して質問する事が大切ですよとお同行さまに教えて頂きました。

 

不審が出てきてもなかなかその場では緊張して発言出来ないですが、後でこっそりと先生をつかまえたり、家でリラックスして思い出してからネットで質問したりしています。

 

あと、不審だけでなく近況やお領解を聞いて頂く事も大切であります、いつでも連絡を取れる先生や見守って下さる師、お同行さまが身近に存在する事は大変幸せな環境なのでありました。

阿弥陀さまのお働きの中で感謝です。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

 

お念仏が口から勝手に出てきたら怖いですか。

以前にYouTube法話で「念仏が口から勝手に出てきたら怖い」というお話がありました。

どうなのでしょうか?

 

お念仏は称えようと思って口に称える、称えようという意思で私の口を動かしている…..。

お念仏が出ないのであれば、努力して口を動かしてみる。

 

確かにそうなんだな~と思いました。

 

しかし、称えたくなったり、称えようと思わせて下さるのは阿弥陀さまのお働きのお陰でありました、私の口から出てきて下さる「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまご自身なのでありますから。

 

また、私の意識から無関係で勝手に出てきて下さる事はあるのですよ~と言いたかったのです、それは口癖のお念仏であります。

 

口癖のお念仏は阿弥陀さまのご苦労が現れているスガタなのでありますから。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

振り返ってみて

「お浄土にはいきやすく人は少ない」という事を聞いて私はお浄土にいけないのではないか。

「獲信者は郡にひとり、信を得る人はまれである。」という事を聞いてこの言葉が頭をぐるぐるめぐり不安で仕方が無かった。

不安を解消したいため、時間の許す限り様々なご法話を探してはお聴聞しました。

 

獲信見敬慶喜と聞いて、喜べる心が無いのて私は獲信していないのだ、

獲信すれば大驚喜がおこるのだと思っていました。

私が以前に一番引っかかっていた事であります。

 

これらの自分の思いは阿弥陀さまの仰せをお聞きする邪魔になります。

南無阿弥陀仏が耳まで届いていても耳に入ってこないのであります。

 

「あれこれ考える事は自分の考えを聴聞しているという事です、阿弥陀さまと自分どちらを信用しますか?」とこのブログを書いている時、師のお言葉を思い出しました。

 

浄土真宗は「南無阿弥陀仏」ただこれだけなのでありました。

阿弥陀さまの仰せ(本願の勅命)」を仰せの通りに聞いている、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と聞いている(その通りになる)相がご信心だといわれます、そこには疑いが入る余地がありません。(疑いようが無い)

 

ただ「南無阿弥陀仏」これひとつだけなのであります、他に何も無いという事でありました。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

 

 

声の仏さま

阿弥陀さまは色も形も無く目に見えません、では何故目に見えないのでしょうか?

以前ご法話でこのようなお話がありました。

「色も形も無いのは意味があります、私を救う為に様々なスガタを表して働きかけていらっしゃる、形が無いのでどんな姿にもなれるのだと。」

 

阿弥陀さまは声の仏さまと言われています、別名「音声仏」おんじょうぶつというのだそうです。

目に見えなくとも声が聞こえます、南無阿弥陀仏と私を喚んでおられます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏… 「堕ちるお前よわれにまかせて念仏申せ必ず浄土にまいらせるぞ」

 

いつでもどこでも阿弥陀さまと一緒です、何とたのもしいお喚び声でありましょうか。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

 

 

 

 

 

信前のお念仏

阿弥陀さまの願いにより沢山の仏さま方が私のもとへお念仏を届けて下さった。

 

 

 お釈迦さま、阿弥陀さまは念仏称えておくれと喚びかけられている。

信前なのでお念仏を称えないというならば、仏さまは悲しまれます。

 

信心が無いとお浄土には参れないといわれていますが、信心とは何の信心なのか?

 

我にまかせよ必ず救うの仰せ「南無阿弥陀仏につゆちりほども疑いが無いのが信心だと蓮如さまはおっしゃられました。

 

もう一度確認を致しますと信前だからお念仏を称えないという事は、お釈迦さま、阿弥陀さまの仰せに背いているという事であります。

 

前知識の先生に教えて頂きました、「何で」救われるのかというと念仏(行)であり、「いつ」救われるのかというと信心(信)定まる時だという事なのですね。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

 

入院していました

病気で苦しんでいる最中はお念仏どころではない自分であります。

 

少し落ち着くと阿弥陀さまは寄り添い、一緒に苦しんでいてくださっていることに気が付く。

 

阿弥陀さまは生活困窮を支援してくださったり、病気を治してくださったりする仏さまでは無いですが、生死を繰り返して迷いの世界から抜けることの出来ない私をお浄土に迎えとると約束して下さる仏さまでありました。

 

 

 

今年の始め1月末から2月の始めまでの間、当ブログ更新できなかったのは、腸閉塞で緊急搬送後に開腹手術を受け入院していたからでありました、今はお陰様で順調に回復しております。

 

手術台に上がった時、全身麻酔前に死を意識しました。

このまま意識が戻らずに死ぬかもしれない、しかし何故か不安はありませんでした。

南無阿弥陀仏.・・・

 

何故不安がなかったのか?本当に自分が死ぬかもしれないと思えないからなのか??

 

そこまで鈍感で無常がわからない私がこのまま死ぬ事になっても生きていてもどちらでも南無阿弥陀仏」はずっと寄り添ってくださっているという事実はかわりませんでした。

 

死がわからなくても、わかっても、不安が無くてもあってもお救いには関係ありません。

そういうお前を必ずお浄土に迎えとるとの阿弥陀さまの仰せをお聞きさせて頂くのは。つねに「今」なのでありました。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏

自分中心の私

普段の生活の中では様々な事に出会います、これはいい事これは悪い事。

自分の目線で見て都合の良い事はいい事、都合悪い事は悪い事として分け隔てる。

 

自分でジャッジしているわけですから、自分が中心であります。

心がすっきりとしている時もあれば、落ち込む時もあります、浮いたり沈んだり。

 

また、人と自分を比べて優位に立ちたいと思い上がり人を見下す。

時には、仏さまのお手柄でさえ自分の手柄に横取りしてしまうのでした。

 

 

南無阿弥陀仏のお働きに気づかせて頂けないと全くこのような事に気が付く事は無い私であります。

 

南無阿弥陀仏は私の頭を押さえて下さり、気が付かせて下さる事があります。

 

「そのような自分中心でしか生きることが出来ないお前、決して救われる事の無いお前だからこそ本願を立てた、必ず救いとるから念仏して浄土に生まれておくれ、南無阿弥陀仏

 

思い出してもなんまんだぶ 忘れてしまってもなんまんだぶ

 

お浄土に生まれるとすぐにまた苦しみの世界に還ってきます、今度は自分中心ではなく南無阿弥陀仏のお働きとならせて頂けるのでありますね。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏